褥創とEBM

2005年2月1日

EBM(EBN)は完璧か?

最近の褥創ケアはEBM・EBNと大変うるさく、全ての判断や行動が縛られ堅苦しくて仕方がない。何か間違っているような気がするが、どうだろうか。実は臨床現場からの直感が一番大切ではないかと思っている。
 我々が医療や看護を行うとき、それは患者さんに対して行うのであり、動物や器械に対して行っているのではなく、当然実験室で行っているわけでもない。全て臨床の現場でのことである。今現に行おうとする行為が患者さんにとって有益か無益か、絶えず自問しながら行っている。そして何らかの決定をして実行するわけであるが、このときに自身の過去の経験や、あるいは論文などで発表されたデータをもとに決めている。このデータがエビデンス(証拠)と言われるもので、この方法がEBMである。
 このエビデンスは、より一般性が高ければ高いほど普遍的であり、それを称してエビデンスレベルが高いという。このことより、エビデンスレベルの高いものを基準にして行為の選択をすることに文句を言うつもりはない。しかし、この段階で大きな不安がある。

アセスメントは適切か?

 エビデンスを使うには、患者さんの情報を単純化しなくてはいけないはずである。褥創予防であれば、「自力体位変換ができるか」「栄養は良いのか」「原疾患は何であるか」など、エビデンスを引っぱってくるための単純化したデータをインプットする必要がある。それでは、そのインプットしたデータは、この個々の患者さんにとって本当に重要なことなのであろうか。
 個々の患者さんの褥創予防にとって、何が重要であるのかのアセスメントができなければ、何のエビデンスを引っぱってくるのかが判らないはずである。つまり研究室ばかりに居て患者さんを診ていない医療者、あるいは現場に居ても臨床経験の浅い医療者はエビデンスを使うことはできないのである。つまり、エビデンスを使うためには、臨床経験が必要なのである。
 具体的に言えば、ある患者さんがいて「この患者さんの褥創予防には高機能エアーマットレスの導入が最も必要ではないか」という直感があって初めて、この患者さんの重要と思われるデータ、例えば「脊髄損傷のある患者における高機能エアーマットレスの選択は適切であるか」についてエビデンスを探してみようという行動に繋がるのである。そして、データを探してみて、それを裏付けるデータがあるかもしれないし、場合によっては別のデータ、例えば「リハビリをもっとやったほうが良い」というデータに直面するかもしれない。これがEBMである。つまり、EBMをを行うには、臨床でのアセスメントがしっかりできていないと意味の無い机上の空論なのである。

エビデンスは個々の例を考えていない

 先に書いたようにエビデンスは物事を単純化し、一般化して有用性の検証をしてある。従って有意差という極めて冷たい判断結果が示される。ところが、患者さんは単純ではない。エビデンスで示された単一あるいは数種の要因の他に無数の特徴を有している。それが個性である。
 その個性を一旦一般化して、判断をEBMに委ねてデータを選んだことを忘れてはならない。従ってそのデータに基づいて、個々の患者さんにある行為を適用するかしないか、そのエビデンスを本当に適用してメリットがあるかどうか、最終的に判断する能力が必要である。どんなにエビデンスがあっても、直感的に適用しないことを選ぶことも良くあることである。ここでも極めて高度な臨床経験が要ると思われる。
 とは言え、私自身エビデンスを利用して臨床を行っている。私が書いたり言ったりしていることも、このような臨床経験に基づいて、大いにバイアスのかかった直感的に正しいと思うことについてデータを集め、裏付けをとっての話である。
 私はこれで良いと思っている。自分の直感を裏付けるために、またそれを行うための勇気をもらうためにEBMを使っている。従って、自分の直感に反するときは、極めて慎重に使っている。あくまでもEBMは使うものであって、EBMに使われてはならないのである。

※本内容は、看護実践の科学(看護の科学者、2005年2月号)に掲載した「褥創予防をめぐる環境要因とその整備」を改変して掲載した。